無地の汚れ

雉も鳴かずば撃たれまい。

アイデンティティとマンネリ

 アイデンティティ、まあ人としての軸、基盤、もしくは矜持と言っても良いが、おそらくこれらの類は普通にのんべんだらりと生きている、あるいは社会の歯車として思考の余地すら与えられず忙殺されている人間には必要のない物だろうと勝手に推察している。

 

 前者はそんなものがなくとも持ち前の自堕落さで人間をやっていけるのだろうし、後者は社会の歯車として忙殺されている以上、既に居場所に相当するものがあるのだろうから(当人が望むまいと)、わざわざアイデンティティなるものを確立するまでもない。

 

 が、空いてしまった膨大な時間に、または思考を許されたほんの一瞬に、自分とは何者か?という遠大な問題にぶつかってしまう場合もある。そもそもアイデンティティの確立というのは思春期から青年期に果たされるべきタスクであり、それを拗らせると一生中二病のような思考実験を繰り返すことになるのである。例えばこの文章のような。

 

 特に、一般に取り柄とされるものがない人間ほど自分とは何者か?という問題に直面しやすいように思う。あるいはその特異なアイデンティティにより社会から虐げられてしまった人間は他のアイデンティティを模索する。今この記事を書いているオタクは、まさにそれに身を投じている最中なのだ。

 

 小学生の頃から何かクリエイティブな(というかオタク趣味の延長のような)職業で生計を立てたいと思っていたが、如何せん一体何が肌に合うのかわからず。

 

 オタク少年はあまりにも多くのものに手を出し、そしてことごとくを失敗と断じてきた。しかしそれでもまあ趣味の範疇でなら、と何だかんだ今現在に至るまで継続できているのが絵を描くことである。とはいえ世界は広く、自分は浅く、生半な覚悟ではもはや趣味である、と言うことすら憚られるほどに高い品質のものが日夜目に留まる。そこから奮起して創作に熱を上げられるか、それがクリエイターとしての資質の優劣の分かれ目だと思っている。

 

 のだが、別に今回したいのはそんな話ではない。ここまでは導入である。

 

 世の中にはクリエイターしかいないわけではない。それでもどこかにアイデンティティや生きる意味を見出すことは可能で、なんだったらクリエイターでなくても承認欲求を満たすことは精神の健康において非常に重要なことだと考えている。

 

 では、芸術的創作活動や社会の歯車としての活動、その類の如何にも産みの苦しみに苛まれそうな手段を避けて承認欲求を満たすにはどうすればいいのだろう?

 

 キャラを作るのである。

 

 これは非常に簡単なことだ。「周囲の人間に存在を知ってもらう」だけでも承認欲求は満たされるかもしれないが、そこから進展して「自分のキャラクター性を広く認知してもらう」ことでその中毒性は大幅に増す。

 

 オタクが何故物事の起源を主張したり、何かの功績について吹聴したがるのか。そもそも何故オタクになったのかも原因として考慮する必要があると思うが、少なくとも自分の手柄について喚いてしまうタイプの人間は中身が空っぽなのである。

 

 頭の中身の話ではない。自我の軸たりえる成功経験が。これさえあれば自分であるという確固たる軸が。数字で測れるような資格や能力が。

 

 自信も自身も皆無なのである。全くの虚無。中身がない。いや、空っぽというよりも不必要な、軸にすることすらままならないような不安定な物だけで埋め尽くされ、もはや容量が足りていない。中身に成功経験を詰め込むことができない。

 

 故に、外付けせざるを得ない。こういったキャラクターです、こういったポジションです、こういう性格です、こういう行動をしがちです…そういった設定を脚色し、外付けし、後付けして、薄っぺらさを補うために外側から盛るのである。

 

 中高生男子にありがちだろう、「性癖は屈折している方が強い」というよくわからない判断基準が。おっぱいよりも鎖骨やうなじに欲情する方が変に持ち上げられてはいなかったか?同年代女子よりも熟女や人妻、あるいは幼女に対して性愛を向けている方が変態扱いされていなかったか?

 

 これは一般的に見てレアケースな設定を盛ることで猥談の中で自身を異常者として強く見せようという浅ましい魂胆に起因している。その通りの性癖の人間もある程度いたが、実際は特定の性癖に執心している人間の方が少ない、というのが自分の認識である。あるいは繰り返しそう言い続けることで自己暗示的に後天的に「そうなってしまう」場合もあるが、これは性癖の話に限定しているわけではない。

 

 高校時代に毎日のように意識して缶のコーラを飲んでいた時期があったが、何かしらの仕事を頼まれるときにはコーラで買収されるようになった。キャラクター性の誇示はそれなりのメリットもある。

 

 が、ここではキャラクターによる承認欲求は一度承認されると後に退けなくなる、という話がしたいのである。

 

 例えば、自分は綾瀬志希という人間を追いかけているが、当初は彼女に関して言及するたびに「綾瀬ェ!!!」とまあ彼女の苗字に全角小文字の母音とエクスクラメーションマークの三連続をくっつけてツイートしていた。訪れていたイベントで、偶然、久しぶりに、待ちに待った彼女を目視した瞬間のインプレッションをそのまま文字に起こしたものである。

 

 これはいわゆる起源主張そのものだが、はっきり言って自分自身が飽きてしまった、そしてちょっと語調が強いのもあって気が乗らなくなった、何より百瀬怜にまで意図せぬ波及があったのである時期から自重するようになった。マジでごめん。

 

 というか、他のメンバーにまで握手やらなんやらで「綾瀬ェは~~」みたいな感じで話を切り出されるようになると純粋に紛らわしいのである。誰だそれは。当の綾瀬まで「綾瀬ェは~~」と言い出すのだからいよいよ収拾がつかない。別にそんなことで認知されても嬉しくない。

 

 今もそれに代わる綾瀬志希の呼び方を模索しているが、「ちきたむ」を経て結局綾瀬に至っているので成長が見られない。志希ちゃんは論外で。

 

 あと個人的流行としては「俺が~~を支えなきゃ…」という勘違いオタク特有の妄言、そして綾瀬志希の写真のポーズのレパートリーの少なさ(結構な頻度で自身の顔の輪郭を隠すように手で頬を覆っていた)を揶揄して「俺が綾瀬のほっぺを支えなきゃ…」というのもあったのだが、あまりにも綾瀬が「俺がほっぺを支えなきゃ…」を言わざるを得ない写真を連投するものだから私信の様に感じるという逆転現象が発生するなどした。これもある時期に流石にくどいな…と自覚して放棄。最近になって一回蒸し返したら本人がもう一度それをやってくれたのでもう満足した。

 

 最近と言えば後方腕組彼氏面ごっこもやった。これも既に飽きている。かといって最前列を張るようなオタクでもないのでポジショニングが決まらずフラフラしている。次は何をロールすればいいのか模索している最中だ。

 

 #CYNHN不適正体重部 というタグを作ってハイカロリーな食べ物の画像をアップするやつもやっていたが、これは元々個人的過ぎるお遊びだったので微妙に人口が増えた段階で放り投げた。そんなマジになって固執するものでもない。

 

 別にこれらの何かがやり続ける価値のない程度のキャラクター付けだったとは思っていない。継続は力とも言うし、言い続けていればそれなりに波及もあっただろう。が、普通にくどいとは思う。今なお個人的に続いているのは#綾瀬志希裸眼部 なるタグくらいだが、そもそもこれも部員がいないから適当にやっているだけであって、めっちゃ人が使い出したら起源主張することもなくブン投げる気がする。

 

 自分で言うのもアレだが、ここまで特定のムーヴメントに対して拘泥せずにサクサクと別の何かを探そうとするのも珍しい気はする。単純に「認知目的」だと思われたくないのもあるかもしれない。どれか特定の要素を排除したことで認識できなくなるような人間はその程度の面白みしかない、というのもあるし、何よりその手のレッテル貼りや圧みたいなものにうんざりしているのもある。

 

 あまり一つのことに固執する人間ははたから見ていて鬱陶しいし、「それ」しかない人間のように見える、という風に考えているので、マンネリ化を忌避しているのである。「MUJIDASH」は「MUJIDASH」であり、複数の要素を兼ねて保持してこそいるものの、その要素のどれか一つ、それも功績とも業績とも言えないような薄っぺらいレッテルを「これと言えばMUJIDASH」と誇示するような浅い人間になりたくないのである。

 

 故にパッと見飽き性にも見えるペースで要素を封印する。

 

 きっと近いうちに文字書きとしてのキャラクター性も捨てるだろう。江ノ島盾子並みの飽き性だと思ってもらって構わない。

 

 しかし、能力とも関係ないような浅い外付けの流行性アイデンティティ誤認障害ではなく、才覚や努力を誇れるようになったら?と常日頃から思う。努力や研鑽を続け、そして結果を誇示できれば、きっとそれを経た人間は空虚ではない。マウントと認識されても言い負かせるほどの筋の通ったアイデンティティである。

 

 さしあたり、薄っぺらいアイデンティティも、ある程度育てれば他の要素の経路として成立すると思いつつ、しっちゃかめっちゃかな量の物事に手を出しては途中で放棄する。そんな言ってしまえば中学生時分と同じ真似を、中学生時分の心持とはまた違った理由で、今日もワンパターンオタクに冷笑を浴びせつつ敢行しているのである。

 

 ところで長文にオチを付けなきゃ、という強迫観念じみた思いはアイデンティティになりますかね?

 

 俺が長文のバランスを支えなきゃ…。